マカゼタマハの世界
わたくし真風玉葉(マカゼタマハ)のオリジナル小説を掲載していきます。 左のカテゴリより作品を選んでお読みください。
世界のしくみ(1)
カナコは夕飯の後、いつもの習慣でテレビを見ていた。
別に見たい番組があるわけでもないし、特に面白いと思ってるわけでもなかったが、なぜかテレビを見なくてはいけないという気持ちになって、つい見てしまうのだった。
リビングに備え付けられた大型のスクリーンには、バラエティ番組が映し出されていた。お笑い芸人たちが、面白いのか面白くないのか分からない芸を見せている。
いや、面白いのだろう。二人掛けのソファのカナコの横ではカナコのママが大口を開けて大笑いをしていた。斜め前のひとり掛けのソファに座るパパも、大口こそ開けていなかったが、クスクスとこらえるような笑いをしている。
親子三人そろってリビングでの団らん風景だ。
ひと昔前ならば、まだママは夕飯の後片付けに追われていて、まだこの団らんの中に加われなかっただろうが、今は違う。
食料が配給制度になり、三度三度の食事が全て自動で各家庭に配られるようになってからというもの、食事の準備や後片付けは必要なくなったのだ。専用の食器がトレイに並べられ、各家庭に配られることで、主婦の負担はずいぶんと減った。食べ終わった食器は、専用のBOXに入れておけば自動的に回収してくれる。
この食糧配給制度は、献立のメニュー決定から調理、各家庭への流通までをすべてコンピューターが一括管理することで、全てを無駄なく処理していた。
いまや食料だけでなく、あらゆる場所でこのコンピューターによる管理が行き届くようになり、人間の負担はほとんど無いに等しかった。
実際、働かなくても良かった。労働は自由となり、働きたい人が、やりたいことだけをすればよかった。
「カナコ。宿題すんだの? 早くやってしまいなさい」
ただし、労働の束縛からは解放されても、教育からは解放されていなかった。子供は今も昔も学校に縛り付けられていたのだった。
「ふぁい」
カナコは気の抜けた返事をした。
ママにリビングを追い出され、自室に戻ったカナコは携帯端末の画面を開いた。テレビはリビングだけでなく、ここでも見られるのだ。ママは宿題をしなさいとは言ったが、テレビを見てはいけないとは言っていないのだ。
多機能かつ高機能の携帯端末は、いまや全国民が所有する生活必需品となっていた。
バラエティ番組はすでに終了しており、今はニュースを流していた。
各地で行われた祭事や行事ごと、スポーツの結果、経済の難しい話し、遠い外国でのできごと……。それらはカナコにとってすべて他人事のように見えた。自分とは関係のない世界の出来事のようで、全然リアリティが無かった。
そしていつもカナコは不思議に思うのだが、犯罪事件のニュースというものがほとんど流れなくなっていた。本当に事件の類は起きていないのだろうか? いつも不思議なのだ。ひょっとしたら、犯罪事件はニュースで流さないようにと、誰かがストップでもかけているのだろうか?
カナコはベッドに入り、芸能ニュースのチャンネルに替えた。
そこでは、どの芸能人が熱愛発覚しただの、離婚しただのといったインパクトのあるニュースが大きく報じられていた。他には誰がどんな活動を開始しただとか、どんな新人がデビューしただとか、どのお笑い芸人が新ネタを披露しただとか……。
やはりそれら芸能ニュースも、カナコにとってどこか別世界の出来事のように感じられていた。世間一般のニュースに比べればまだ興味がわかないこともないが、自分の手の届かない存在に感じられて、本当にニュースで言っているようなことが起きているのだろうか? と不思議に感じられているのだった。
でも、いくら自分から遠い存在であっても、無限とも思えるニュースの数々はカナコをひきつけてやまなかった。深夜になってもカナコはずっと芸能ニュースを見続け、いつしか眠りに落ちていった。
別に見たい番組があるわけでもないし、特に面白いと思ってるわけでもなかったが、なぜかテレビを見なくてはいけないという気持ちになって、つい見てしまうのだった。
リビングに備え付けられた大型のスクリーンには、バラエティ番組が映し出されていた。お笑い芸人たちが、面白いのか面白くないのか分からない芸を見せている。
いや、面白いのだろう。二人掛けのソファのカナコの横ではカナコのママが大口を開けて大笑いをしていた。斜め前のひとり掛けのソファに座るパパも、大口こそ開けていなかったが、クスクスとこらえるような笑いをしている。
親子三人そろってリビングでの団らん風景だ。
ひと昔前ならば、まだママは夕飯の後片付けに追われていて、まだこの団らんの中に加われなかっただろうが、今は違う。
食料が配給制度になり、三度三度の食事が全て自動で各家庭に配られるようになってからというもの、食事の準備や後片付けは必要なくなったのだ。専用の食器がトレイに並べられ、各家庭に配られることで、主婦の負担はずいぶんと減った。食べ終わった食器は、専用のBOXに入れておけば自動的に回収してくれる。
この食糧配給制度は、献立のメニュー決定から調理、各家庭への流通までをすべてコンピューターが一括管理することで、全てを無駄なく処理していた。
いまや食料だけでなく、あらゆる場所でこのコンピューターによる管理が行き届くようになり、人間の負担はほとんど無いに等しかった。
実際、働かなくても良かった。労働は自由となり、働きたい人が、やりたいことだけをすればよかった。
「カナコ。宿題すんだの? 早くやってしまいなさい」
ただし、労働の束縛からは解放されても、教育からは解放されていなかった。子供は今も昔も学校に縛り付けられていたのだった。
「ふぁい」
カナコは気の抜けた返事をした。
ママにリビングを追い出され、自室に戻ったカナコは携帯端末の画面を開いた。テレビはリビングだけでなく、ここでも見られるのだ。ママは宿題をしなさいとは言ったが、テレビを見てはいけないとは言っていないのだ。
多機能かつ高機能の携帯端末は、いまや全国民が所有する生活必需品となっていた。
バラエティ番組はすでに終了しており、今はニュースを流していた。
各地で行われた祭事や行事ごと、スポーツの結果、経済の難しい話し、遠い外国でのできごと……。それらはカナコにとってすべて他人事のように見えた。自分とは関係のない世界の出来事のようで、全然リアリティが無かった。
そしていつもカナコは不思議に思うのだが、犯罪事件のニュースというものがほとんど流れなくなっていた。本当に事件の類は起きていないのだろうか? いつも不思議なのだ。ひょっとしたら、犯罪事件はニュースで流さないようにと、誰かがストップでもかけているのだろうか?
カナコはベッドに入り、芸能ニュースのチャンネルに替えた。
そこでは、どの芸能人が熱愛発覚しただの、離婚しただのといったインパクトのあるニュースが大きく報じられていた。他には誰がどんな活動を開始しただとか、どんな新人がデビューしただとか、どのお笑い芸人が新ネタを披露しただとか……。
やはりそれら芸能ニュースも、カナコにとってどこか別世界の出来事のように感じられていた。世間一般のニュースに比べればまだ興味がわかないこともないが、自分の手の届かない存在に感じられて、本当にニュースで言っているようなことが起きているのだろうか? と不思議に感じられているのだった。
でも、いくら自分から遠い存在であっても、無限とも思えるニュースの数々はカナコをひきつけてやまなかった。深夜になってもカナコはずっと芸能ニュースを見続け、いつしか眠りに落ちていった。
作品投稿
短編「銀杏坂」を掲載しました。
原稿用紙、約25ページほどの長さとなっています。
全7部構成となっています。左側のカテゴリーより選んでお読みくださいませ♪
原稿用紙、約25ページほどの長さとなっています。
全7部構成となっています。左側のカテゴリーより選んでお読みくださいませ♪
銀杏坂(7)
朝。どこの家庭も同じく迎える朝食の時間。高橋伸治の家庭は母とふたりきりで迎える朝食の時間だった。
いつもと同じく、伸治は朝食をとりながらバイクの雑誌を読み、キッチンの前では母の翔子が身支度を整えながら朝食を取っていた。
ただいつもと違うのは、伸治は母に対してある種の気まずさを覚えていた。
それは、父親がなくなった真実を教えてくれなかったことに対する不信感もあったが、それ以上に実の息子にも明かすことなく父親の死を自分ひとりで胸に秘めていたことに対する敬意の思いだった。
ここに来るまでに、長くつらい道のりだったと思われる。
被害者の遺族と示談金、近所の目、親戚の目、全部自分ひとりで背負ってきていたのだ。そしてもちろん一家の大黒柱として、自分をちゃんと育ててきた。事実を知らなかったとはいえ、伸治は今までの自分はあまりに母親に対してわがままだったと反省していた。
「なあ、俺さあ、高校になったらバイト始めるから」
「うん? 前からそのつもりだったでしょ?」
翔子は身支度の手を止めた。
「バイトは始めるけど、バイクは買わないから。おふくろの少ない稼ぎに少しでもプラスしてやろうと思ってさ」
「バカいってんじゃないよ。あんたの世話にならなくたって、なんとかやりくりできるんだから。今までできてたんだから、これからもできるわよ」
なぜだか分からないが翔子は急に怒りはじめた。
「まあ、バイク乗るのは社会人になってからでも遅くはないからさ。この家にやっかいになってる間は、俺の生活費くらいは納めようと思ってね」
「生意気言ってえ。あんたあんなにバイク乗りたがってたのに、どうして急にそんなこというのさ。怪しい。何かたくらんでるな」
「何もないよ。それに俺がバイク乗るの反対してたの、おふくろだろ。しばらくはバイク乗らないって言ったんだから、少しは喜べよ」
せっかくの親切心で言ってやってるのに、素直じゃない母親の反応に、伸治はだんだん腹が立ってきた。
「あ、いっけね、もうこんな時間だ。いってきまーす」
伸治は時計を見るなり大声を上げた。急いでカバンをつかむと母親を無視するように家を飛び出した。
「ちょっと伸治」
勢いよく飛び出していった息子の背中に向かって、翔子は叫ぶように言った。伸治は聞こえているのかいないのか、返事はなかった。翔子はあきれるようにため息をついた。
テーブルの上に置きっぱなしになっているオートバイの雑誌を手に取ると、翔子の表情は少し穏やかになった。そして仏壇で微笑む亡き夫に祈るように手を合わせた。
<終>
いつもと同じく、伸治は朝食をとりながらバイクの雑誌を読み、キッチンの前では母の翔子が身支度を整えながら朝食を取っていた。
ただいつもと違うのは、伸治は母に対してある種の気まずさを覚えていた。
それは、父親がなくなった真実を教えてくれなかったことに対する不信感もあったが、それ以上に実の息子にも明かすことなく父親の死を自分ひとりで胸に秘めていたことに対する敬意の思いだった。
ここに来るまでに、長くつらい道のりだったと思われる。
被害者の遺族と示談金、近所の目、親戚の目、全部自分ひとりで背負ってきていたのだ。そしてもちろん一家の大黒柱として、自分をちゃんと育ててきた。事実を知らなかったとはいえ、伸治は今までの自分はあまりに母親に対してわがままだったと反省していた。
「なあ、俺さあ、高校になったらバイト始めるから」
「うん? 前からそのつもりだったでしょ?」
翔子は身支度の手を止めた。
「バイトは始めるけど、バイクは買わないから。おふくろの少ない稼ぎに少しでもプラスしてやろうと思ってさ」
「バカいってんじゃないよ。あんたの世話にならなくたって、なんとかやりくりできるんだから。今までできてたんだから、これからもできるわよ」
なぜだか分からないが翔子は急に怒りはじめた。
「まあ、バイク乗るのは社会人になってからでも遅くはないからさ。この家にやっかいになってる間は、俺の生活費くらいは納めようと思ってね」
「生意気言ってえ。あんたあんなにバイク乗りたがってたのに、どうして急にそんなこというのさ。怪しい。何かたくらんでるな」
「何もないよ。それに俺がバイク乗るの反対してたの、おふくろだろ。しばらくはバイク乗らないって言ったんだから、少しは喜べよ」
せっかくの親切心で言ってやってるのに、素直じゃない母親の反応に、伸治はだんだん腹が立ってきた。
「あ、いっけね、もうこんな時間だ。いってきまーす」
伸治は時計を見るなり大声を上げた。急いでカバンをつかむと母親を無視するように家を飛び出した。
「ちょっと伸治」
勢いよく飛び出していった息子の背中に向かって、翔子は叫ぶように言った。伸治は聞こえているのかいないのか、返事はなかった。翔子はあきれるようにため息をついた。
テーブルの上に置きっぱなしになっているオートバイの雑誌を手に取ると、翔子の表情は少し穏やかになった。そして仏壇で微笑む亡き夫に祈るように手を合わせた。
<終>
銀杏坂(6)
「高橋君、何をしているのこんな所で」
遠くから自分を呼びかける声に、伸治はグイっと肩をつかまれて引き戻される錯覚を起こした。すると目の前の光景が一変した。
雨降りの事故現場ではなく、ここはとっぷりと日の暮れた銀杏坂だった。さみしい坂道の中で、街灯の光がぽつんと灯っている。
「ちょっとどうしたの? 大丈夫? 目がうつろだよ?」
聞き覚えのある声に、伸治は振り返った。そこには委員長の石川美由紀がいた。伸治の顔を心配そうにのぞき込んでいる。
「オヤジの……」
伸治は何か言いたかったが、これだけ言うのが精一杯だった。
「ああ、そういえば今日は高橋君のお父さんの命日ね。それでこの場所に来てたのね。事故からずいぶんたつけど、まるでついこの間のようね。わたしあの日のことは今でもはっきり覚えているわ。雨降りの日だった……」
つぶやくような美由紀の言葉に、伸治は顔を上げた。そう、彼女は事故現場の一番近くにいたのだ。そして彼女の姉は……。
「お前のお姉さんは……」
「そうね、今日は姉の命日でもあるわ。もしかして、姉の分もお祈りしてくれてたの? ありがとうね。わたしも家帰ったら、お花供えようと思っていたところよ。今学校帰りだから」
そう言うと美由紀はカバンを持ち上げて伸治に見せた。
「もちろんあなたのお父さんの分もお花供えるつもりよ」
美由紀は屈託のない笑顔で言ってのけた。伸治にとってそのひとことはとてつもなく重く聞こえた。
「もしかして毎年俺のオヤジにも花を?」
「ええ、そうよ」
「だって、お前には関係ない……。オヤジは加害者なのに」
「関係あるわよ。確かに姉はあの日の事故で死んだけど、あなたのお父さんだって大変なことに……。それ以上にあなたのお母さんや、あなた自身だって大変だったでしょう? 事故で家族を亡くしたのもつらいけど、あんな亡くなりかたをする方がもっとつらいでしょう? だから、わたしよりも高橋君の方がえらいと思うわ。いつも明るくふるまっていて。だからわたしも高橋君を見習って、暗くならないでいようと決めたのよ」
伸治は首を振りたい気分だった。知らなかったのだ。父親があんな死に方をしていたなんて、ついさっきまで知らなかったのだ。そして、美由紀が事実を知っていて、真実を知らないのが自分ひとりだけだったのもショックだった。きっと母親が、わざと知らせなかったのだろう。
「それにね。わたくしが今ここにこうして生きていることにすごく感謝しているの。だって、あの日、わたしと姉のどっちが事故にあっていても不思議じゃなかった。もしかしたらふたりとも事故にあっていたかもしれないわ。だから、わたしだけが生きているのはちゃんと意味があると思ってるの。だから、姉やあなたのお父さんのことは絶対に忘れないつもりよ」
伸治は泣きそうだった。もしも、美由紀と立場が逆だったら自分はどうしていただろうか?
美由紀の親が、自分の家族を事故で死なせてしまったと仮定して、果たして自分は美由紀に対してこんな接し方は出来ていただろうか?
伸治は美由紀に対する見方がまったく変わってしまっていた。
遠くから自分を呼びかける声に、伸治はグイっと肩をつかまれて引き戻される錯覚を起こした。すると目の前の光景が一変した。
雨降りの事故現場ではなく、ここはとっぷりと日の暮れた銀杏坂だった。さみしい坂道の中で、街灯の光がぽつんと灯っている。
「ちょっとどうしたの? 大丈夫? 目がうつろだよ?」
聞き覚えのある声に、伸治は振り返った。そこには委員長の石川美由紀がいた。伸治の顔を心配そうにのぞき込んでいる。
「オヤジの……」
伸治は何か言いたかったが、これだけ言うのが精一杯だった。
「ああ、そういえば今日は高橋君のお父さんの命日ね。それでこの場所に来てたのね。事故からずいぶんたつけど、まるでついこの間のようね。わたしあの日のことは今でもはっきり覚えているわ。雨降りの日だった……」
つぶやくような美由紀の言葉に、伸治は顔を上げた。そう、彼女は事故現場の一番近くにいたのだ。そして彼女の姉は……。
「お前のお姉さんは……」
「そうね、今日は姉の命日でもあるわ。もしかして、姉の分もお祈りしてくれてたの? ありがとうね。わたしも家帰ったら、お花供えようと思っていたところよ。今学校帰りだから」
そう言うと美由紀はカバンを持ち上げて伸治に見せた。
「もちろんあなたのお父さんの分もお花供えるつもりよ」
美由紀は屈託のない笑顔で言ってのけた。伸治にとってそのひとことはとてつもなく重く聞こえた。
「もしかして毎年俺のオヤジにも花を?」
「ええ、そうよ」
「だって、お前には関係ない……。オヤジは加害者なのに」
「関係あるわよ。確かに姉はあの日の事故で死んだけど、あなたのお父さんだって大変なことに……。それ以上にあなたのお母さんや、あなた自身だって大変だったでしょう? 事故で家族を亡くしたのもつらいけど、あんな亡くなりかたをする方がもっとつらいでしょう? だから、わたしよりも高橋君の方がえらいと思うわ。いつも明るくふるまっていて。だからわたしも高橋君を見習って、暗くならないでいようと決めたのよ」
伸治は首を振りたい気分だった。知らなかったのだ。父親があんな死に方をしていたなんて、ついさっきまで知らなかったのだ。そして、美由紀が事実を知っていて、真実を知らないのが自分ひとりだけだったのもショックだった。きっと母親が、わざと知らせなかったのだろう。
「それにね。わたくしが今ここにこうして生きていることにすごく感謝しているの。だって、あの日、わたしと姉のどっちが事故にあっていても不思議じゃなかった。もしかしたらふたりとも事故にあっていたかもしれないわ。だから、わたしだけが生きているのはちゃんと意味があると思ってるの。だから、姉やあなたのお父さんのことは絶対に忘れないつもりよ」
伸治は泣きそうだった。もしも、美由紀と立場が逆だったら自分はどうしていただろうか?
美由紀の親が、自分の家族を事故で死なせてしまったと仮定して、果たして自分は美由紀に対してこんな接し方は出来ていただろうか?
伸治は美由紀に対する見方がまったく変わってしまっていた。
銀杏坂(5)
女の子の声が合図であったかのように、いきなり伸治の目の前の光景が一変した。
さっきまで雨なんて降っていなかったのに、しとしとと霧雨が降りだしていたし、時刻も逆回しされたみたいに、日が高くなり少し辺りが明るくなった。
辺りの情景の変わりように戸惑っている伸治のすぐ目の前を、一台のタクシーが通り過ぎた。
銀杏坂を登っていくということは、行く先は総合病院しかない。
伸治はそのタクシーの後部座席に母親の姿を見た。髪を伸ばしていて、かなり印象は違っていたが、見間違えようがなかった。顔つきも幾分雰囲気が異なっていて、まるで若い頃の姿を見ているようでもあった。
その母親と一緒にタクシーに乗っていたのは、小学校低学年くらいの男の子だった。まさしくそれは伸治自身だった。伸治はどういうわけか、自分の幼い頃の姿を客観的に見ていた。伸治は頭が混乱しそうだった。
母親と幼い伸治を乗せたタクシーは、坂を登りきると病院内へと入っていった。
ふと伸治は思い出した。
−−自分は幼い頃心臓が弱くて、たびたび発作を起こしては総合病院に運ばれていたっけ。
ひとつ思い出すとその当時の記憶があふれるようにわき出してきた。
−−病院に運ばれると、必ずオヤジが仕事を早退して、病室までかけつけてくれたっけ。発作の苦しさもオヤジの顔を見たらやわらいだものだっけ。
昔の思い出に浸っている伸治は、ふと辺りが少し暗くなっているのに気がついた。どれくらいの間ぼんやりしていたのだろう? いきなり時間がすぎてしまったみたいだった。雨の少し振りが激しくなってきたみたいだった。
坂の上のほうから、二人連れの女の子が降りてきた。小学校低学年、ちょうど先ほど見た幼い伸治と同じ年の頃の女の子が、雨の降る中カッパを着てこちらに向かってきていた。まるで双子のようにそっくりな顔立ちをしているこのふたりは、きっと姉妹に違いなかった。仲良く手をつないで、おそろいのカッパを着ている姿はまるで鏡写しだった。
伸治はその二人連れの女の子に見覚えがあった。
−−どこで見たっけ? あ、そうだ病院だ。このふたりは病院の院長の孫娘だ。何度か病院であったことがある。そっくりな顔をしているけど、どっちかが姉でどっちかが妹のはずだ。で、妹と同い年のはずだ。待てよ、病院の院長の孫で俺と同級生ということは……
その時、遠くの方から甲高い独特の排気音が轟いた。
ものすごいスピードでこちらへ向かってくるその排気音の主は、レーサーレプリカのバイクだった。雨で濡れた路面に全く構うことなく、ドライな路面と同じように攻めの姿勢で走っている。銀杏坂のカーブでは、コースの内側に向かって思い切り体重をかけて傾けてコーナーを曲がろうとしている。まるでレースのような走りだ。
だが、そのバイクはコーナーを曲がりきるには、あまりにオーバースピードだった。加えて路面は濡れている。
無数の金属部品がアスファルトをかきむしる音が響き渡った。制御を失った二輪の固まりは、そのままコーナーの外側にものすごいスピードで滑っていく。コースアウトした金属の塊は、ちょうど通りがかった女の子めがけて突っこんでいき、道の壁のブロックに衝突してやっと止まった。一瞬遅れて、ライダーが大破したバイクにぶつかった。
全ては一瞬の内に終わった。その一部始終を目の前で見ていた伸治は、何もすることができなかった。
−−そういえばあの日。オヤジが事故で死んだという知らせは、病院でおふくろから聞いた覚えがある。そうあの日はちょうどこんな雨の日だったっけ。
のろのろとゆっくりとした動きでライダーが立ち上がった。脳しんとうでも起こしているのか、足元がおぼつかない。
ライダーはヘルメットを取った。
伸治は目を見張った。ライダーが亡き父であり、プロレーサーの高橋健だったからだ。その獲物を狙う鷹のような鋭い顔つきは、写真や記憶中のままだったが、事故を起こした直後の健はまるで精彩を欠いていた。オロオロと迷子の子供のように右往左往している。
すぐ目の前に泣き叫んでいる女の子がいる。紙一重の差で無傷のようだ。健はその鳴き声でわれに返り、急いで坂をかけ上がり、病院へ知らせに行った。
しばらくすると病院からたくさんの人が出てきた。医師、看護士、患者とその付添い人等など……。遠くからはパトカーのサイレンも聞こえてきた。事故現場は雨が降る中にもかかわらず、大勢の人でごった返していた。
その様子を坂の上から健は見つめていた。自分が犯してしまったことの重大さが、後から後からわきあがってくる。単に事故を起こしただけではない。自分はプロのバイクレーサーなのである。それなのに。しかも自損事故などではないのだ。
健はめまいを起こし、銀杏の樹に倒れ掛かった。見ればすぐ頭の上に太くて大きな枝が伸びている。まだ脳しんとうの影響があるようだ。ぼんやりする頭の中で、犯した罪の重さに押しつぶされそうになる自分が、とてもみじめに思えた。
健はのろのろとゆっくりとした動きでズボンのベルトを外すと、銀杏の樹の枝にかけ、自らの首をそこに吊り下げた。
伸治は、坂の上の銀杏の樹の枝にぶら下がる黒い影を見た。
−−違う! これは違う! 俺の知りたかったことはこんなのじゃない! これはウソだ! 何かの間違いだ!
伸治はその場に泣き崩れた。
さっきまで雨なんて降っていなかったのに、しとしとと霧雨が降りだしていたし、時刻も逆回しされたみたいに、日が高くなり少し辺りが明るくなった。
辺りの情景の変わりように戸惑っている伸治のすぐ目の前を、一台のタクシーが通り過ぎた。
銀杏坂を登っていくということは、行く先は総合病院しかない。
伸治はそのタクシーの後部座席に母親の姿を見た。髪を伸ばしていて、かなり印象は違っていたが、見間違えようがなかった。顔つきも幾分雰囲気が異なっていて、まるで若い頃の姿を見ているようでもあった。
その母親と一緒にタクシーに乗っていたのは、小学校低学年くらいの男の子だった。まさしくそれは伸治自身だった。伸治はどういうわけか、自分の幼い頃の姿を客観的に見ていた。伸治は頭が混乱しそうだった。
母親と幼い伸治を乗せたタクシーは、坂を登りきると病院内へと入っていった。
ふと伸治は思い出した。
−−自分は幼い頃心臓が弱くて、たびたび発作を起こしては総合病院に運ばれていたっけ。
ひとつ思い出すとその当時の記憶があふれるようにわき出してきた。
−−病院に運ばれると、必ずオヤジが仕事を早退して、病室までかけつけてくれたっけ。発作の苦しさもオヤジの顔を見たらやわらいだものだっけ。
昔の思い出に浸っている伸治は、ふと辺りが少し暗くなっているのに気がついた。どれくらいの間ぼんやりしていたのだろう? いきなり時間がすぎてしまったみたいだった。雨の少し振りが激しくなってきたみたいだった。
坂の上のほうから、二人連れの女の子が降りてきた。小学校低学年、ちょうど先ほど見た幼い伸治と同じ年の頃の女の子が、雨の降る中カッパを着てこちらに向かってきていた。まるで双子のようにそっくりな顔立ちをしているこのふたりは、きっと姉妹に違いなかった。仲良く手をつないで、おそろいのカッパを着ている姿はまるで鏡写しだった。
伸治はその二人連れの女の子に見覚えがあった。
−−どこで見たっけ? あ、そうだ病院だ。このふたりは病院の院長の孫娘だ。何度か病院であったことがある。そっくりな顔をしているけど、どっちかが姉でどっちかが妹のはずだ。で、妹と同い年のはずだ。待てよ、病院の院長の孫で俺と同級生ということは……
その時、遠くの方から甲高い独特の排気音が轟いた。
ものすごいスピードでこちらへ向かってくるその排気音の主は、レーサーレプリカのバイクだった。雨で濡れた路面に全く構うことなく、ドライな路面と同じように攻めの姿勢で走っている。銀杏坂のカーブでは、コースの内側に向かって思い切り体重をかけて傾けてコーナーを曲がろうとしている。まるでレースのような走りだ。
だが、そのバイクはコーナーを曲がりきるには、あまりにオーバースピードだった。加えて路面は濡れている。
無数の金属部品がアスファルトをかきむしる音が響き渡った。制御を失った二輪の固まりは、そのままコーナーの外側にものすごいスピードで滑っていく。コースアウトした金属の塊は、ちょうど通りがかった女の子めがけて突っこんでいき、道の壁のブロックに衝突してやっと止まった。一瞬遅れて、ライダーが大破したバイクにぶつかった。
全ては一瞬の内に終わった。その一部始終を目の前で見ていた伸治は、何もすることができなかった。
−−そういえばあの日。オヤジが事故で死んだという知らせは、病院でおふくろから聞いた覚えがある。そうあの日はちょうどこんな雨の日だったっけ。
のろのろとゆっくりとした動きでライダーが立ち上がった。脳しんとうでも起こしているのか、足元がおぼつかない。
ライダーはヘルメットを取った。
伸治は目を見張った。ライダーが亡き父であり、プロレーサーの高橋健だったからだ。その獲物を狙う鷹のような鋭い顔つきは、写真や記憶中のままだったが、事故を起こした直後の健はまるで精彩を欠いていた。オロオロと迷子の子供のように右往左往している。
すぐ目の前に泣き叫んでいる女の子がいる。紙一重の差で無傷のようだ。健はその鳴き声でわれに返り、急いで坂をかけ上がり、病院へ知らせに行った。
しばらくすると病院からたくさんの人が出てきた。医師、看護士、患者とその付添い人等など……。遠くからはパトカーのサイレンも聞こえてきた。事故現場は雨が降る中にもかかわらず、大勢の人でごった返していた。
その様子を坂の上から健は見つめていた。自分が犯してしまったことの重大さが、後から後からわきあがってくる。単に事故を起こしただけではない。自分はプロのバイクレーサーなのである。それなのに。しかも自損事故などではないのだ。
健はめまいを起こし、銀杏の樹に倒れ掛かった。見ればすぐ頭の上に太くて大きな枝が伸びている。まだ脳しんとうの影響があるようだ。ぼんやりする頭の中で、犯した罪の重さに押しつぶされそうになる自分が、とてもみじめに思えた。
健はのろのろとゆっくりとした動きでズボンのベルトを外すと、銀杏の樹の枝にかけ、自らの首をそこに吊り下げた。
伸治は、坂の上の銀杏の樹の枝にぶら下がる黒い影を見た。
−−違う! これは違う! 俺の知りたかったことはこんなのじゃない! これはウソだ! 何かの間違いだ!
伸治はその場に泣き崩れた。



