マカゼタマハの世界
わたくし真風玉葉(マカゼタマハ)のオリジナル小説を掲載していきます。 左のカテゴリより作品を選んでお読みください。
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銀杏坂(5)
女の子の声が合図であったかのように、いきなり伸治の目の前の光景が一変した。
さっきまで雨なんて降っていなかったのに、しとしとと霧雨が降りだしていたし、時刻も逆回しされたみたいに、日が高くなり少し辺りが明るくなった。
辺りの情景の変わりように戸惑っている伸治のすぐ目の前を、一台のタクシーが通り過ぎた。
銀杏坂を登っていくということは、行く先は総合病院しかない。
伸治はそのタクシーの後部座席に母親の姿を見た。髪を伸ばしていて、かなり印象は違っていたが、見間違えようがなかった。顔つきも幾分雰囲気が異なっていて、まるで若い頃の姿を見ているようでもあった。
その母親と一緒にタクシーに乗っていたのは、小学校低学年くらいの男の子だった。まさしくそれは伸治自身だった。伸治はどういうわけか、自分の幼い頃の姿を客観的に見ていた。伸治は頭が混乱しそうだった。
母親と幼い伸治を乗せたタクシーは、坂を登りきると病院内へと入っていった。
ふと伸治は思い出した。
−−自分は幼い頃心臓が弱くて、たびたび発作を起こしては総合病院に運ばれていたっけ。
ひとつ思い出すとその当時の記憶があふれるようにわき出してきた。
−−病院に運ばれると、必ずオヤジが仕事を早退して、病室までかけつけてくれたっけ。発作の苦しさもオヤジの顔を見たらやわらいだものだっけ。
昔の思い出に浸っている伸治は、ふと辺りが少し暗くなっているのに気がついた。どれくらいの間ぼんやりしていたのだろう? いきなり時間がすぎてしまったみたいだった。雨の少し振りが激しくなってきたみたいだった。
坂の上のほうから、二人連れの女の子が降りてきた。小学校低学年、ちょうど先ほど見た幼い伸治と同じ年の頃の女の子が、雨の降る中カッパを着てこちらに向かってきていた。まるで双子のようにそっくりな顔立ちをしているこのふたりは、きっと姉妹に違いなかった。仲良く手をつないで、おそろいのカッパを着ている姿はまるで鏡写しだった。
伸治はその二人連れの女の子に見覚えがあった。
−−どこで見たっけ? あ、そうだ病院だ。このふたりは病院の院長の孫娘だ。何度か病院であったことがある。そっくりな顔をしているけど、どっちかが姉でどっちかが妹のはずだ。で、妹と同い年のはずだ。待てよ、病院の院長の孫で俺と同級生ということは……
その時、遠くの方から甲高い独特の排気音が轟いた。
ものすごいスピードでこちらへ向かってくるその排気音の主は、レーサーレプリカのバイクだった。雨で濡れた路面に全く構うことなく、ドライな路面と同じように攻めの姿勢で走っている。銀杏坂のカーブでは、コースの内側に向かって思い切り体重をかけて傾けてコーナーを曲がろうとしている。まるでレースのような走りだ。
だが、そのバイクはコーナーを曲がりきるには、あまりにオーバースピードだった。加えて路面は濡れている。
無数の金属部品がアスファルトをかきむしる音が響き渡った。制御を失った二輪の固まりは、そのままコーナーの外側にものすごいスピードで滑っていく。コースアウトした金属の塊は、ちょうど通りがかった女の子めがけて突っこんでいき、道の壁のブロックに衝突してやっと止まった。一瞬遅れて、ライダーが大破したバイクにぶつかった。
全ては一瞬の内に終わった。その一部始終を目の前で見ていた伸治は、何もすることができなかった。
−−そういえばあの日。オヤジが事故で死んだという知らせは、病院でおふくろから聞いた覚えがある。そうあの日はちょうどこんな雨の日だったっけ。
のろのろとゆっくりとした動きでライダーが立ち上がった。脳しんとうでも起こしているのか、足元がおぼつかない。
ライダーはヘルメットを取った。
伸治は目を見張った。ライダーが亡き父であり、プロレーサーの高橋健だったからだ。その獲物を狙う鷹のような鋭い顔つきは、写真や記憶中のままだったが、事故を起こした直後の健はまるで精彩を欠いていた。オロオロと迷子の子供のように右往左往している。
すぐ目の前に泣き叫んでいる女の子がいる。紙一重の差で無傷のようだ。健はその鳴き声でわれに返り、急いで坂をかけ上がり、病院へ知らせに行った。
しばらくすると病院からたくさんの人が出てきた。医師、看護士、患者とその付添い人等など……。遠くからはパトカーのサイレンも聞こえてきた。事故現場は雨が降る中にもかかわらず、大勢の人でごった返していた。
その様子を坂の上から健は見つめていた。自分が犯してしまったことの重大さが、後から後からわきあがってくる。単に事故を起こしただけではない。自分はプロのバイクレーサーなのである。それなのに。しかも自損事故などではないのだ。
健はめまいを起こし、銀杏の樹に倒れ掛かった。見ればすぐ頭の上に太くて大きな枝が伸びている。まだ脳しんとうの影響があるようだ。ぼんやりする頭の中で、犯した罪の重さに押しつぶされそうになる自分が、とてもみじめに思えた。
健はのろのろとゆっくりとした動きでズボンのベルトを外すと、銀杏の樹の枝にかけ、自らの首をそこに吊り下げた。
伸治は、坂の上の銀杏の樹の枝にぶら下がる黒い影を見た。
−−違う! これは違う! 俺の知りたかったことはこんなのじゃない! これはウソだ! 何かの間違いだ!
伸治はその場に泣き崩れた。
さっきまで雨なんて降っていなかったのに、しとしとと霧雨が降りだしていたし、時刻も逆回しされたみたいに、日が高くなり少し辺りが明るくなった。
辺りの情景の変わりように戸惑っている伸治のすぐ目の前を、一台のタクシーが通り過ぎた。
銀杏坂を登っていくということは、行く先は総合病院しかない。
伸治はそのタクシーの後部座席に母親の姿を見た。髪を伸ばしていて、かなり印象は違っていたが、見間違えようがなかった。顔つきも幾分雰囲気が異なっていて、まるで若い頃の姿を見ているようでもあった。
その母親と一緒にタクシーに乗っていたのは、小学校低学年くらいの男の子だった。まさしくそれは伸治自身だった。伸治はどういうわけか、自分の幼い頃の姿を客観的に見ていた。伸治は頭が混乱しそうだった。
母親と幼い伸治を乗せたタクシーは、坂を登りきると病院内へと入っていった。
ふと伸治は思い出した。
−−自分は幼い頃心臓が弱くて、たびたび発作を起こしては総合病院に運ばれていたっけ。
ひとつ思い出すとその当時の記憶があふれるようにわき出してきた。
−−病院に運ばれると、必ずオヤジが仕事を早退して、病室までかけつけてくれたっけ。発作の苦しさもオヤジの顔を見たらやわらいだものだっけ。
昔の思い出に浸っている伸治は、ふと辺りが少し暗くなっているのに気がついた。どれくらいの間ぼんやりしていたのだろう? いきなり時間がすぎてしまったみたいだった。雨の少し振りが激しくなってきたみたいだった。
坂の上のほうから、二人連れの女の子が降りてきた。小学校低学年、ちょうど先ほど見た幼い伸治と同じ年の頃の女の子が、雨の降る中カッパを着てこちらに向かってきていた。まるで双子のようにそっくりな顔立ちをしているこのふたりは、きっと姉妹に違いなかった。仲良く手をつないで、おそろいのカッパを着ている姿はまるで鏡写しだった。
伸治はその二人連れの女の子に見覚えがあった。
−−どこで見たっけ? あ、そうだ病院だ。このふたりは病院の院長の孫娘だ。何度か病院であったことがある。そっくりな顔をしているけど、どっちかが姉でどっちかが妹のはずだ。で、妹と同い年のはずだ。待てよ、病院の院長の孫で俺と同級生ということは……
その時、遠くの方から甲高い独特の排気音が轟いた。
ものすごいスピードでこちらへ向かってくるその排気音の主は、レーサーレプリカのバイクだった。雨で濡れた路面に全く構うことなく、ドライな路面と同じように攻めの姿勢で走っている。銀杏坂のカーブでは、コースの内側に向かって思い切り体重をかけて傾けてコーナーを曲がろうとしている。まるでレースのような走りだ。
だが、そのバイクはコーナーを曲がりきるには、あまりにオーバースピードだった。加えて路面は濡れている。
無数の金属部品がアスファルトをかきむしる音が響き渡った。制御を失った二輪の固まりは、そのままコーナーの外側にものすごいスピードで滑っていく。コースアウトした金属の塊は、ちょうど通りがかった女の子めがけて突っこんでいき、道の壁のブロックに衝突してやっと止まった。一瞬遅れて、ライダーが大破したバイクにぶつかった。
全ては一瞬の内に終わった。その一部始終を目の前で見ていた伸治は、何もすることができなかった。
−−そういえばあの日。オヤジが事故で死んだという知らせは、病院でおふくろから聞いた覚えがある。そうあの日はちょうどこんな雨の日だったっけ。
のろのろとゆっくりとした動きでライダーが立ち上がった。脳しんとうでも起こしているのか、足元がおぼつかない。
ライダーはヘルメットを取った。
伸治は目を見張った。ライダーが亡き父であり、プロレーサーの高橋健だったからだ。その獲物を狙う鷹のような鋭い顔つきは、写真や記憶中のままだったが、事故を起こした直後の健はまるで精彩を欠いていた。オロオロと迷子の子供のように右往左往している。
すぐ目の前に泣き叫んでいる女の子がいる。紙一重の差で無傷のようだ。健はその鳴き声でわれに返り、急いで坂をかけ上がり、病院へ知らせに行った。
しばらくすると病院からたくさんの人が出てきた。医師、看護士、患者とその付添い人等など……。遠くからはパトカーのサイレンも聞こえてきた。事故現場は雨が降る中にもかかわらず、大勢の人でごった返していた。
その様子を坂の上から健は見つめていた。自分が犯してしまったことの重大さが、後から後からわきあがってくる。単に事故を起こしただけではない。自分はプロのバイクレーサーなのである。それなのに。しかも自損事故などではないのだ。
健はめまいを起こし、銀杏の樹に倒れ掛かった。見ればすぐ頭の上に太くて大きな枝が伸びている。まだ脳しんとうの影響があるようだ。ぼんやりする頭の中で、犯した罪の重さに押しつぶされそうになる自分が、とてもみじめに思えた。
健はのろのろとゆっくりとした動きでズボンのベルトを外すと、銀杏の樹の枝にかけ、自らの首をそこに吊り下げた。
伸治は、坂の上の銀杏の樹の枝にぶら下がる黒い影を見た。
−−違う! これは違う! 俺の知りたかったことはこんなのじゃない! これはウソだ! 何かの間違いだ!
伸治はその場に泣き崩れた。
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